我が家にカラーテレビがやってきた

テレビのカラー放送は1960年(S35)から行われていたが、それを表示する受像機、すなわちカラーテレビの普及率は、’67年で1.6%しかなかった。
今回のいにしえ語りのステージは、その翌年、1968年。57年前のこと。

我が家に白黒テレビがやってきたのは’62年、普及率90%になってからという低所得世帯。それからまだ数年。カラーテレビなんて、何しろ数十万円もする高額商品だから、自分家には無縁のものだと思っていた。

ところが、ところが、68年の年頭か、春だったか、販売側がとんでもない策を仕掛けてきた。
「メキシコオリンピックをカラーで観よう!」の呼び掛け・連呼が、テレビの画面から、家電店の店頭から、一斉に始まったのだ。
製造全メーカーが共同で大々的に行なったキャンペーンだったと思うけれど、期間中に電器店からカラーテレビが貸し出される、今で言うモニター・キャンペーンが大々的に展開されたのだった。

オリンピックの開催期間中、十二分にカラー放送の素晴らしさを堪能してもらって、オリンピック終了時に、購入するかしないかの判断をし、買わないなら、返却してもらっても結構です。
―という制度だそうな。(―だったと記憶している)

そんなこと、できます? あんなん観てから、返せます?

やめてくれ!やめとけ!!
終わっても返されへんようになる。
つまり、返却したくなくなるのは火を見るより明らか、目先の美味しさに釣られて、数カ月後の辛酸を背負い込む愚は避けるべきだ!と少年は必死に訴えたけれど、その主張は却下された。
そして、カラーテレビが我が家にやってきた。

この時代、メーカー各社は独自の技術をアピールするため、自社製品に「◯◯カラー」と愛称をつけていた。
松下電器のパナカラー、日立のキドカラー、そして我が家にやってきた東芝のユニカラー、そう、我が家に話を持ち込んできたのは、東芝系列店のN工機という電器店さんだったのです。
当時、♪~明るいナショナル、明るいナショナル、ラジオ、テレビ、何でもナショナル~♪のCMソングに馴染んでいたボクは、パナカラーに思い入れがあったのだが、その思い入れはすぐに忘れた。だって、彩色画像を映し出している本物のカラーTVには勝てないものね。

メキシコオリンピックは’68年(S43)の10月13日に開催され、28日に終了した。
さあ、借りているカラーテレビを返却しなければならない。
が、返したくない。
数カ月前の悶着を再開することになるのだが、様相は全く変わる。

今度は、「あれだけ、返すのが辛くなるので借りないでくれと懇願してた俺に、その辛さを味わわせるのか?」「返す?そんなブサイクなこと、恥ずかしないか?」と強弁しなくてはならなかった…。ああシンド!!

我が生涯最高の親子バトルを展開、すったもんだの揚げ句、36回やったか48回やったか忘れたけれど、つまり長期ローンで購入することになった。

ネットなどの記録・資料では、カラーテレビの普及率について「68年で5%。メキシコ五輪のカラー放送視聴で普及に弾みがつき、7年後には90%を超えた」と記述されている。

わが家は、“5%組み”に入ったわけだ。これを奇跡と呼ぶか、まんまと電器メーカーの策謀に乗せられた愚か者と見るかは、ひとまず置いておく。

比較的早期導入となった結果、ちょっとした“カラー放送鑑賞会”というべきか、近所のおっちゃんが毎晩来るようになり、遅くまで電源が落ちることがなかった。

参考までに記しておくけれど、新しくつけられたTVアンテナの突っ張った何本かの横棒、導波器とかいうらしい金属の横棒が赤色に着色されていた。
錆び止めなのかも知れないが、周囲のモノクロのアンテナに比べて図体も大きく、なんだかカラーTVつけましてん♥と告知しているようであった。

ブラウン管の端っこや新聞の番組欄の行頭に【カラー】マークが表示されていた56年前の懐古譚である。