青年マンガ誌の驀進

青年マンガ誌の登場・後編に入る__

「ビッグコミック」は当時の大物売れっ子作家の五人を揃え「ビッグ5が連載で競う!」を売りにした。
手塚治虫、白土三平、石森章太郎、水木しげる、さいとう・たかを__
よく揃えたもんです。さすが小学館。
少年誌でのサンデーの敗北_講談社のマガジンに“劇画路線”でぶちのめされた雪辱、新雑誌で果たしたるッ!という気魄満点だ。当時15歳だったオイラは非常に興奮したことを覚えている。
実力者手塚治虫と石森章太郎は児童漫画界から、そして白土三平と水木しげるは『ガロ』から招聘、加えて、同社の「ボーイズライフ」で『007』や『挑戦野郎』の連載を行っていた劇画界の親分的存在さいとう・たかをという重量路線は、当時の青少年たちを楽しませた。

「プレイコミック」は、「ビッグ」と同様の、マンガ系作家と劇画系作家を程よくミックスした編集方針だった。石森章太郎が連載を持ちつつ、永らく表紙画も描いていたのが印象深い。70年代、「ビッグ」と「ヤンコミ」とともに新市場の青年漫画界の開拓に貢献したミディアム級といったところ。

「ヤングコミック」は創刊号の表紙こそぶっ飛んでいたけれど、掲載作品を見れば準備不足というか、方向が定まっていないというか―の地味な出発だったけれど、’69年頃から文芸色の濃い作風、作家性が強いマンガ家達、上村一夫、真崎・守、宮谷一彦、青柳裕介、安部慎一、川本コオといった人たちの作品を掲載するようになり、がぜん“個性的誌面作り”に成功、後に「伝説の劇画誌」とよばれるオリジナリティーを確立した。
新人の発掘にも積極的で、かわぐちかいじ、松森正、末永史、谷口ジロー、神江里見などを送り出すこととなる。

1970年、浦賀沖・黒船来航レベルの大事件が青年マンガ界に起こった。
稀代のストーリーテラー、小池一夫(一雄=当時)さんの出現だ。(※1)
小池さんは、大人の鑑賞に耐える一級のエンターテインメントを次々に発表、瞬く間に小池一夫時代の幕をあけてしまった。
『子連れ狼』、一年後には『高校生無頼控』という「アクション」2本立て興行、「ヤンコミ」では『御用牙』。勢いはマンガ誌にとどまらず一般週刊誌にも波及、各誌で“劇画”の連載が始まった。『I・餓男』『首斬り朝』『弐十手物語』『修羅雪姫』など、いずれもヒットした。

何度も書いたことだけれど、対象年齢を上げればとりあげる作品世界も広がる、世界が広がればそれに見合った画と表現が必要になり、技法が探求・開発される…小池ワールドの特徴、ViolenceとEroticismを表現するため絵師であるマンガ家達は画技を大きくレベルアップさせた。池上遼一、芳谷圭児、神田たけ志、叶精作…皆さんの画、もう修練の賜物としか申せません。

1970年代に入ると政治の季節は去った。
大阪万博は成功裡に終わり、学生運動は急速に退潮していった。
’73年頃には高度経済成長が一段落し、我が国は安定成長期と称される段階に入っていく。
’80年代直前の世論調査では多くの国民が「物質的にある程度豊かになったので、これからは心の豊かさやゆとりのある生活をすることに重きをおきたい」と回答したという。「そこそこ満たされた」感覚は、’70~’80年にリアルに生きていた庶民の実感だと思う。
青年マンガが登場してきた頃高校生だった私、万博の頃には社会に出、80年には人並みに配偶者を得一児の父になっていた。

その間、青年マンガ誌は増殖を続け、ブランドとなった雑誌の系列誌(※2)も発行されるようになり、また青年誌と児童誌の間を埋める「ヤング〇〇」(なんていえばいいの? ハイティーン誌?)なども各社が次々と発行し、マンガ業界は巨大産業に成長し、日本は世界に冠たる「コミック大国」になって行ったのだった……

「ヤングコミック」の表紙画像と単行本『劇画狂時代』の表紙画像(※3)

※1:小池さんの巨大&膨大な功績を思えば、小池さんのみで1章を設けなければならない。

※2:本誌「ビッグコミック」その仲間「ビッグコミックオリジナル」「ビッグコミックスピリッツ」「ビッグコミックスペリオール」のような兄弟誌のこと。

※3:「ヤングコミック」の表紙画像と『劇画狂時代』の表紙画像…左より①1968年11/26号_表紙画:タイガー立石(オークフリーよりDL)②1970年7/22号_表紙画:上村一夫(aucfanよりDL)③1973年3/14号_表紙画:上村一夫(Yahoo オークションよりDL)④元ヤングコミック編集者の岡崎英生氏著『劇画狂時代―「ヤングコミック」の神話』の表紙(紀伊国國屋書店ウェブストアよりDL)__させてもらった。本書は私が最も熱心に読んでいた頃の「ヤングコミック」について書かれた本。③の表紙画像内の『しなの川』の作者表記に岡崎氏の名が見えている。