子供の頃からのマンガ愛読歴を綴り、70年代の劇画や青年コミック誌の驀進をおしゃべりして、マンガ愛読歴“少年期編”を終えた気になっていた私、とんでもない大物作家について記事を立てていないことに気づいてしまった。
―巨匠・横山光輝さんである。
1960年頃の月刊マンガ誌王者「少年」が誇る強力二枚看板は、手塚治虫の『鉄腕アトム』と横山光輝の『鉄人28号』だった―のは有名だけど、私の感覚的な記憶では、どちらかといえば『鉄人』が推し気味、どちらも巻頭カラーページ掲載なんだけど『鉄人』が先頭、『アトム』は2番手―のほうが多かったように覚えている。
まあ、「少年」全号を集計した結果ではなく、あくまでもオイラの印象だから、間違ってたらゴメン! ―結局、私自身が鉄人びいきだったということなのだろう。
手塚治虫の絵にあるクリクリ感をちょっぴり減らし、対象想定年齢を若干上げ、よりスマートに美しく仕上げた印象の横山光輝タッチ。その分アクが抜けたような物足りなさを感じる向きが多いかも。
また石森章太郎のように、積極的に実験的コマ割りを探るといった指向もなく、ゆえにグイグイくる感じも少なくて、キレイに1ページ内におさまっている。つまり、とっても安定したページ構成なのだ。
だからとても読みやすい。児童マンガのデフォルトといっても良いその画風と作風から、一級のエンターテインメントが次々に生まれ、僕たちを楽しませてくれたのだった(少年に戻っているゼ!)
いろんなジャンルの先鞭をつけ、耕し、名作をモノにする、横山エンタテイメント山脈は広汎にして広大だ。
私の横山作品の遍歴を辿ってみたい。
まず『鉄人28号』(月刊「少年」56年~66年)。
「少年」で11年半続いた傑作だ。アトムのような頭脳を持たない鉄人は、善でも悪でもないただの“機械”。ゆえに操縦器(者)次第、操縦器の奪いあいという潜在的なサスペンスが、ロボット同士の戦いとは別の面白みを俺たちに与えていたのだろうね。
そして、『伊賀の影丸』(週刊「少年サンデー」61~66年)。
いうまでもなく、白土三平作品とともに忍者マンガブームを起こした超人気作品。その魅力的な仕掛けのひとつは、よく指摘されるように、少年漫画の鉄板展開「トーナメントバトル」方式を導入した草分け作品であること。
少年たちは忍者達の死闘に興奮し、毎週毎週「サンデー」をワクワクしながら広げたのだった。かくいう私も、阿魔野邪鬼には絶対に勝てないと思いつつも目が離せなかった一人だった。
忍者モノで忘れちゃいけないのが、10名のマンガ家による連作シリーズ『忍法十番勝負』(月刊「冒険王」64年新年号~10月号)で、この貴重なアンソロジーの掉尾を飾ったのも横山作品だった。(アンソロジー漫画としての評価は別だよ)
横山ワールドはSFモノにも広がっている。
60年代始めの少年サンデーでは、短編『未来をのぞいた男』や『時間警備隊』、60年代中頃には宇宙モノSFの長編『宇宙船レッドシャーク』(月刊「少年ブック」65年4月号~67年3月号)を愛読。
007大フィーバー時代の当時、皆んなが描いたスパイアクションにも横山作品があり、『コマンドJ』(週刊「少年マガジン」65年8月~66年7月)がそれ。
また、児童マンガ誌と青年マンガ誌の橋渡しをしたような雑誌『ボーイズライフ』(小学館)で、作者の嗜好が、時代物から歴史物へと変遷してゆく後の航跡を示すようなふたつの連載が『片目猿』(63年~64年)、そして『蛟竜(風雲児 黒田官兵衛)』(65年~66年)。
私は『蛟竜』で「こうりょう」という言葉と「黒田如水」という人物の存在を知ったのだった。
66~67年頃、私はどっぷりと横山作品に浸かっていたのだな~と感心するね。
『影丸』の後継作品には、テレビ化前提の企画『仮面の忍者 赤影』(週刊「少年サンデー」66年45号~67年48号)があった。影丸愛が強いオイラには「?」な作品だったけど、67~68年に放映された特撮忍者ドラマとともに、大ヒットした作品だ。
後年、何回目かの再放送の時にオイラの息子が夢中になっておりました。
『グランプリ野郎』(月刊「少年」68年1月号~68年3月休刊号・「少年ブック」に移籍、68年4月号~69年4月休刊号)は、『鉄人』の完結後、新分野に挑戦した元祖カーレーサーマンガといえる意欲作で、効果線などの描き込み量も増え、リアル化路線をひた走る当時のマンガ界の流れを敏感に取り入れた力作だったが、何しろ連載した二誌がともに廃休刊になるという不幸な巡りあわせ、月刊マンガ誌時代の終焉とともに終了した“惜しい”作品だ。
横山ワールドには、少女マンガのヒット作、「リボン」連載の『おてんば天使』(59年1月号~62年3月号)と『魔法使いサリー』(66年7月号~67年10月号)があるのだが、読んでないから語れない。(当たり前やね)
横山作品への私の遍歴は、’70年を潮に激減してゆく。
私自身を含め、スマートでアクのないキレイな画が物足りなく思える時代・世間になっちゃったのである。
その後の横山さんは、歴史物に創作の比重を移し、じっくりとストーリーを読ませるような作品群にシフトして行かれたのだった。
発表の舞台も「希望の友」(1964年創刊。80年からは「コミックトム」・潮出版社)という月刊誌。
『水滸伝』『三国志』『項羽と劉邦』『殷周伝説』と途切れることなく連載され、1967年から2001年というとんでもない時間を中国古典・歴史漫画の執筆に充てられた。
きっと月刊誌という媒体がご自分のモチーフやペースに合っておられたのだろうと思う。
子供の頃のマンガ界の勢力地図において、メインストリームのひとつであった“横山調”。
児童マンガという沃野の、多くの分野をパイオニアとして開拓された功績の大きさは語りつくせないものがある。
そして何より、子どもの頃に興奮させていただいた恩恵、これもまた語りつくせないものなのだ。



