青年マンガ誌の登場

1967年7月7日に「週刊漫画アクション」が双葉社より創刊された。
翌8月には、少年画報社から今や伝説の青年マンガ誌と呼ばれる「月刊ヤングコミック」が創刊された。
16才・高校一年生になっていた私は、児童雑誌のコーナーではなく一般週刊誌の売り台の上、『平凡パンチ』や『週刊プレイボーイ』と並んでいる両誌の購入がなんだか気恥ずかしく、いつもの本屋ではなく遠くの書店で買ったのだった。

その前年66年の夏、最初の青年マンガ誌といわれる「コミック magazine」が芳文社から創刊されていた。いわゆる大人漫画調を廃し、イラスト調・アメコミ調の作品、そして劇画界からさいとう・たかを氏を担ぎ出した誌面構成で好評を持って迎えられた。
そして一年後、「アクション」のヒット、看板連載『ルパン三世』の大ヒットによって、まさに時機到来、青年マンガ誌の創刊ラッシュ、ジャパン・コミックの快進撃の歴史が始まる。

翌68年2月29日には、「ビッグコミック」が同年4月号として小学館から創刊された。
同年6月1日には、秋田書店から「プレイコミック」が創刊され、こちらは隔週誌だった。
当初月刊誌としてスタートした「ビッグコミック」も、一年後の4月25日号からは10日・25日発売の隔週誌となった。この頃、テンポアップしてゆくことが是とされていた世の中、月刊誌では商売が難しくなっていたのだろうね。で、児童マンガ週刊誌から青年マンガ週刊誌・隔週誌のレールが整備され、日本人は生涯マンガを手放せなくなったのだ。

青年マンガ4誌創刊号の写真:左から「週刊漫画アクション」「ヤングコミック」「ビッグコミック」「プレイコミック」(※1)

急激に成長拡大するマンガ市場、描き手=マンガ家の調達に不自由しなかったのか?
あの頃の作家達を思い出してみる――
児童マンガ家のベテランたちがスライドしたタイプ、貸本マンガ界からの流入タイプ、アニメーション畑からの転向組などに大別することができるものの、分類自体あまり重要な意味はない。
全部のキャリアを積んでいる人、同時並行ですべてをこなしている人などが、当たり前に、たくさんいたのだ。物事の誕生期、膨張期のエネルギーたるや、真に恐ろしいのである。いけちゃうんである。なっちゃうんである。

その頃の世界、60年代後半は、アメリカの公民権運動、米国を発端に世界的な広がりを見せたベトナム反戦運動、フランスでの五月革命、日本における三里塚闘争や東大紛争…等々、学生や若者の声が大きく世界を揺るがした政治の季節だった。
芸術や文化といった面でも、支配的で安定した権威の象徴的なメインカルチャーに対抗する新しい流れが志向され、カウンターカルチャー(対抗文化って訳すらしい)と呼ばれた。

新興の青年マンガ界は、そんな時代の空気や声を体いっぱいに吸収し、作品を、表現を模索した。
作品の基調は、反権力(非権力)、主要人物はアウトローやヒエラルキーの下層に属する人が多く、「金儲けして何が悪い」と嘯くような輩は敵役で出ても主役にはなれない。何しろカウンターカルチャー、大衆文化の王道だもん。


ルパン3世のフィギュアの写真 撮影者:Vinson Tan ( 楊 祖 武 )さん PixabayよりDL

団塊の世代と続く断層の世代と呼ばれた若者の年齢の上昇とシンクロして、マーケットを拡げて行ったマンガ。21世紀、世界に誇る日本文化のひとつとみんながいうようになって久しいマンガ。恭賀すべきだろうけど、お上がクールジャパンのコンテンツとかいって公認するような状況は、正直、気持ちよくない。
私にとってマンガやアニメは、たとえそれが生まれた国であれ、国家の経済戦略・ブランド戦略に利用して良いものでなく、もっと次元の高い、文化的・芸術的な創作物なんである。

話が横道にそれ、紙数が尽きた。
この話、前後編に分けることにする。

※1:創刊号写真ー「漫画アクション」はコミックナタリー『漫画アクション50周年記念フェス開催!』という記事の図版、「ヤングコミック」「プレイコミック」は日本の古本屋、「ビッグコミック」はYAHOO!オークション、各々のコンテンツに掲載されている商品写真をダウンロードして使わせてもらった。