昭和40(1965)年、中学校の学校行事―映画鑑賞で『東京オリンピック』を地元映画館に観に行った。
競技場建設のために古い建物を毀つオープニングから、変貌してゆく都市=東京が描かれ、個々の競技が映し出される頃には、中2生のボウズの頭の中には、早くも感想として明確なコピーが浮かんでいた。
「この映画は、大傑作や」――と。
当時「『東京オリンピック』は記録映画か芸術作品か」と言う論争が世間を騒がしていたそうだが、田舎の中学2年生の耳には全然入ってこなかった。(ほんま、世間知らずやったんです)
「記録映画」か「芸術作品」かという言い方・問題の立て方、二項対立として扱うこと自体おいらには、大いに疑問やけど。
歴史的に済んだ話やから、蒸し返してもしようがないけれど、超一流の“〈劇〉映画監督”に依頼しておいて、「芸術か記録か」論争もないもんだ。「ニュース映画」と「劇映画」の区別もできない人達が発注先を間違えた――としか思えないエピソードだね。
前年のオリンピック開催期間中には、学校で週に1~2時間、テレビで実況放送を視聴する時間があった。割当によって、何を見ることができるか、クラス毎に変わった。私のいたクラスは、理科室のテレビで水球の実況を見た(確か…)。
学校の小さなテレビのボケた中継映像に比べ、映画『東京オリンピック』の映像のなんと美しいことか。(そらそやろ、宮川一夫さん主導やで!)
選手一人ひとりの肉体、その汗、その鼓動、応援する人々、それを包んでいる会場の熱気、などなど、偏狭なナショナリズムのかけらもない人間のイベントが映し出されていた…ベタな言い方になるけど、「これは人間讃歌やな」と、その時少年は思ったのである。
また、冒頭の建築物を破壊するシーンは空襲でメッタメタにされた敗戦国・大日本帝国、続く新しい東京の描写は、民主主義国家として再生をとげた日本国のダブルイメージ…と何となく受け止めてもいた。(僕らは、ピュアな戦後民主主義教育を受けていた世代です)
その日本が敗戦から19年、隣国の不幸な歴史がきっかけになったかもしれない高景気の波などを受けつつ、とにかく一所懸命働いて、普通の暮らしを皆んなで取り戻しましたという証し・節目のイベントが東京オリンピック。そして、戦争しないでやってきたら、人類の平和の祭典=オリンピックを開催できるンや、平和ってよろしいやろッ、と高らかに歌い上げたのがこの映画だったのだ。
『東京オリンピック』は日本国内で12億2321万円の配給収入を記録し、同年度のカンヌ国際映画祭では国際批評家賞、英国アカデミー賞ドキュメンタリー賞を受賞したそうだ。
また映画館の他にも日本各地の学校や公民館で上映会が開かれたことから、その観客動員数は一般観客750万人、学校動員1600万人の合計2350万人で、事実上日本映画史上最多であるといわれている(※)。
私は、学校動員1600万人の中の一人だったのである。
※:Wikipedia『東京オリンピック (映画)』の記述による。