スピード感を持って、……?

近頃気になる巷の日本語のシリーズタイトルイメージ

__スピード感を持って事にあたる
第99代総理大臣がよく使って広め、当代の総理を始め、今や政官界で当たり前のように使われているこの言葉、おいらには一向に、「意味がわからん!」なのだ。

「○○感」というのは、名詞の後につけて「…の感じ」を表す“感”の接尾語的用法だ。
ゆえに「スピード感」というのは、「スピードが速そうな感じ」、あくまでも「感じ」なのだ。

だから「スピード感を持って事にあたる」というのは、「スピーディーに問題に取り組む」ということではなく、「素早く問題に取り組んでいるように、傍で見ている人間に映るように行動する」ということなのだ。

あくまでも、「ふうな感覚を与えているだけ」。どこまでも「見せてるだけ」。
事にあたって後の“結果”や“成果”は含まれていない表現で、「あたったけれども、はかばかしくできなかった」といつでもいえる巧妙な言い草でもある。
言い換えれば、端から結果を問われないように考えられた「ごまかし話法」としかいいようがない物言い。いやらしい。

__スピード感
誰の発明なんだろう?
これ、菅さん自身も官房長官時代から使ってたし、さらにいえば、98代総理大臣の安倍晋三さんも使っていたようだし、もう、この頃からだね。わたしが、国語力の低いゴースト・コピーライターみたいな存在を夢想するようになったのは。

もう何年になるのだろう。
「○○する」と言わないで、「○○するように努める」さらに「○○するように、いろんな人の意見を聞いて、みんなが納得できる、結果が出るように、できる限り、全力で努める」と、どんどんと具をぶち込んで核心をぼかしていく喋り方、麗句を並べているつもりかもしれないが、主部と述部がどうつながってるのかわからなくしてしまうグダグダの数珠繋ぎ話法、言うなれば、究極の我田引水論法。
そして、ちょっとでも反論や論難されたりすると、ヒステリックな口調で、相手を否定する。
なんとも狭量な御仁で、…おっと話が特定の人物のことになってきている。あくまでも政府・与党の皆さん、あるいは議事堂周辺各位の全般的傾向として語らねばなりません(笑)

この20年、いろんな人間が「スピード感を持って」いろんなことに取り組むといってきた。
ひとまず「スピーディーな取り組みが行われた」と認めるとして、じゃあ「得られたものは」なんなのか?
……著しい成果は見つからない。

究極のごまかし論法、ズルズルひっぱり回しのはぐらかし話法がまかり通っているご時勢、なんともはや、暗鬱なること頻りなのだ。
今、国民が可及的速やかに検討とか議論とかしていかねばならない問題は、経済成長というベクトルを中心に据えずに、国民一人ひとりが暮らしやすい国とはどんな姿なのかを考えることではありませんかね。