大人漫画の衰退

2020年にリリースされた澤村修治・著『日本マンガ全史―「鳥獣戯画」から「鬼滅の刃」まで―』という新書の内容に、いわゆる「大人漫画」とその系譜の記述がないことを夏目房之介さんのWeb講義を視聴して知った。(※1)

私は、ストーリー漫画~劇画~ジャパンコミックという変遷の歴史を、今日のマンガ状況の主流を成すものと考えてはいるけれど、大人漫画を無視して了とするような我田引水論者ではない。だから“大人漫画の落日”を見てきたものの一人としてちょびっと喋っておこうというのが今回のお題。

大人漫画のあるべき姿って、おおよその文芸が持つ普遍的な精神とか性根といったものと同質の、同時代を生きつつ社会を眺める鋭い観察力とか強い批評精神でもって、ひとコマだとかページものだとかの形式からも自由になって、硬軟取り混ぜ人の世を戯画化することでしょう。
そういうピリッとした仕事をした方、している方、今だって漫画界にいること、私も世間も、忘れてはおりまへん。つまり、系譜は続いている。
「ブラックアングル」によって“週刊誌を後から開かせた”山藤章二さん、ピンクでもギャグでも歴史モノでもなんでもこい!の黒鉄ヒロシ先生、消えかけていた“漫画”を今日まで繋いだ天才いしいひさいちさん(なんと同い年だぜ、関係ないけど、誇りである)。
この人達の業績が入っていないマンガ史(※2)なんて、到底“全史”とは呼べないだろうね。鳥獣戯画を入れといたらええよッてなもんでは決してない。

もう結論書いちゃったから、最短稿として終わってもいいんだけど、「大人漫画」ってなんか久しぶり、妙なノスタルジーが湧いてきちゃった。もうちょっと喋ろうや…

明治以降のポンチ絵の伝統を継承し、日本漫画の本流をゆくものとして闊歩していたのが「大人漫画」だった…という私達が植え付けられた「大人漫画」観も、最近では崩れつつある。
昭和の一時期に存在した「漫画集団」という名の漫画家グループと『文藝春秋漫画讀本』を出していた文藝春秋社が、「児童漫画や劇画と一線を画する」自分達の作品のラベルとして「大人漫画」という名称を使い始めた、ぐらいが最近研究のあらましやと思うわ。

その内容は、「一コマ漫画(カートゥーン)を中心とするが、四コマ漫画やストーリー漫画をも含む大人の鑑賞に堪える風刺とユーモアを旨とする漫画」(または、それを目指して努力していた作品達)だったそうなんだけど、--ともかく、1970年を境に衰退していった。
理由は簡単明白だ(った)。
そこに僕たちの求める「面白さ」がなかったからだ。(夏目さん風にいえば「ドライブ感」かもね)
僕たちとは、敗戦後の日本人増殖期の賜物、概して「団塊の世代」と括られる世代とそれに続く人達、昭和20年代に生まれた当時の子供たち・若者たちのこと。

そんな子供の一人である私、きちんと「大人漫画」を整理しとこうとWikipediaを読んでみたら、大失敗だった。あまりWikipediaにムカムカしない私だが、「大人漫画」()の項だけは、どうにもダメである。
この項の執筆者は、反・子ども漫画&劇画論者の生き残りさん、または、それらに関する作文をパッチワークのように貼っただけの代物に見え、とてもじゃないけど平常心を保てない代物だ。
軽薄な差別意識や選民意識が、引用ではなく地の文で現れるもんだから、ムカつくわけよ。 そんな駄文の、怒りを通り越して笑っちゃうよねというところを<>で囲ってみたよ。

<格式の有る月刊の大人漫画誌に加え、1950年代後半の「週刊誌ブーム」に乗って、大衆向けの週刊大人漫画誌がたくさん創刊された。>(格式って何なん?)

<1950年代から1960年代にかけて隆盛した「大人漫画誌」は、漫画を見るだけでなくちゃんと長い文章も読める大人向けの雑誌なので、「漫画誌」を称しつつも漫画より読物の比重が多い、「読本(どくほん)」という形式を取っている。>(これ一読してわかる?)

<「大人漫画誌」は、文士や俳優など各界の名士がこぞって寄稿しており、したがって漫画の執筆者も、彼らと同列の「名士」であり「文化人」として扱われた。>(同列にしていらんけど)

<「大人漫画誌」の想定読者は、1週間単位で生活する「サラリーマン」である。ゼニとオンナとギャンブルが大好きで、若く、大卒は少ないものの、ちゃんと長い文章も読める上に漫画も理解る、「知的大衆」とみなされていた。貸本劇画の想定読者である、漫画を買う金もないその日暮らしの下層労働者とはランクが違った。>(すごい文章やね。テロられても仕方ないと思うよ)

<「子供漫画誌」の傾向が貸本劇画作家の流入によって変貌し、分別のあるいい大人の大学生までが『週刊少年マガジン』を読み始め、「右手にジャーナル、左手にマガジン」が流行語となるのが1969年であるが、それまではまともな「大人」が「子供漫画」を読むなんて考えられず、まして「まともな大人」にとって、「劇画」など「漫画」とすらみなされなかった。>(『朝日ジャーナル』はインテリか、インテリぶるやつしか読んでなかったよ、当時)

<1970年頃になると、大人漫画の業界を牛耳った大人漫画家の職能集団「漫画集団」の閉鎖性により、大人漫画のなり手が少なかったことと、劇画の人気に押されて大人漫画専門誌が休刊、あるいは劇画誌に鞍替えするなどして大人漫画の発表の場が減少するなどの事情があり、衰退した。 >(青年漫画の誕生と驀進の時代や)

当時の「大人漫画」が錦の御旗のごとく振りかざしていた「風刺」の精神、自分たちの思っていたインテリジェンスやエスプリやアイロニーといったものが、所詮ジジイの寝言みたいなお座敷落語程度の“辛味”しかなかったということやろね。
そんなこっちゃから『忍者武芸帳』にも『あしたのジョー』にも勝てへんねん、当然や。
(無論、知的・芸術性においてもやで…)

あららっ、大好きだった小島功さんのこと書くスペースがなくなった。稿を改めよう…

※1:夏目房之介講義…2023年9月2日に学習院大学で行われた、夏目房之介マンガ講座2023「漫画史再考」(全4回/主催:学習院大学人文科学研究科身体表象文化学専攻)

※2:この著者は私と同じ定義、つまり「マンガ」とは「ストーリー漫画~劇画~ジャパンコミック」のことを言い、他の形式の「漫画」「カートゥーン」などは入れないよという論なのかな。