ふるさとの映画館

1976年、25歳で転居するまで、私は出生地である柏原市ですごし、暮らした。
現代史の区分でいうところの、高度経済成長期(1955年~1973年)にどっぷりと浸かりながらも、好景気の恩恵に浴することの少ない、大阪のベッドタウンエリアの最外周にあたる、南河内の小さな町だった。

当時の、昭和30年から40年代のカシワラ(※1)には、三つの劇場があり、うち二つが映画館で、残りの一つは映画もかかっていたかも知れないが、芝居小屋だったと記憶している。
いずれも“音”でしか名前を覚えていない。
芝居小屋の名は、カシゲキ。多分「柏原劇場」の略称でしょうね。
二軒の映画館の内、ひとつはラッキィ。
多分英語のラッキーだとは思うけど、記憶(音)通りに表記すると「ラッキィ」となる。
また「ラッキィ館」「ラッキィ劇場」とかも着いていた記憶はない。ただの“ラッキィ”。
他方は、ヤマトカン。
多分「大和館」でしょう。大和川の近くにあったから。

ラッキィは東映・大映作品が、ヤマトカンは東宝・日活作品が主に架かっていたように思う。
松竹作品はこちらという明瞭な記憶はないため、双方で架けられていたのかも知れない。

当節の、完全入れ替え制などという有難い制度ではなく、途中入場可・居続け鑑賞可の、別の意味で有難い鑑賞体制であった。

座席数は、200位だったろうか。扉を開けて暗幕をくぐり場内に入ると、少し溜まり場のような空間があり、真向かいにスクリーンがあった。
溜まり場の左手に売店(ヤマトカンは右側だったかも)があり、瓶ラムネや醤油おかきが売られていた。
数歩進むと左右を分けるセンター通路があった。
左ブロックの前列左端近辺にドアがあり、外に出て右折れ数歩進むとトイレだった。

スタジオ・ジブリの鈴木敏夫プロデューサーが自身のラジオ番組『ジブリ汗まみれ』の中で、昭和30年代のふるさと・名古屋の映画館について「当時は(座席の)場所によっては、トイレの匂いが漂ってくる映画館」だったと述懐しておられる(※2)が、よほどの大都会でない限り、全国どちらの劇場も同様の塩梅で、我がふるさとの両館も似たような環境であったと思う。

そんなローカルな映画館であったが、たくさんの日本映画を観ることができた。
時代は、映画が娯楽の王様から転落し、観客動員数が激減、斜陽産業と呼ばれるに至る“冬の時代”の始まりの頃のことであります。

※1:昭和31年に柏原町と合併していた国分町地域の事情は不明です。何しろ当時ガキンチョだったものですから。ですが、映画館の一軒ぐらいはあっても不思議ではないスケールの町だったように記憶しているのですが、あやふやです。

※2:何しろ1990年開始の長寿番組のことゆえ、すごい数のポッドキャストが残されている。その数に茫然としながらも、1回目から全て聴き直すことに挑戦した。開始より数カ月、見つけましたよ!
2013年4月8日オンエア分、Vol.262「汗まみれが書籍になって発売」の巻。

「昔、映画館ってね、ションベン小屋っていわれたんです。要するに、トイレの臭いがたちこめる、スクリーンの横っちょに大概トイレがあってね、そのトイレの臭いが中に入ってくるわけよ。そんなの関係なく皆んな映画を観てた。…」と発言しておられます。