私のマンガ道楽は、1960年から始まった。
『僕が「少年サンデー」の購読を始めた時30円やった。小学三年の時や』が私のお定まりの台詞。であるけれど当のサンデー、その年の4月から40円になってたようだから、その直前、2月か3月のことだったと思われる。
例を出すと、少年サンデー No.7(2月14日号)の連載陣は、手塚治虫『0マン』、藤子不二雄『海の王子』、石森章太郎『かけだせダッシュ!』、寺田ヒロオ『スポーツマン金太郎』、横山隆一『ゆかいなとこや』、益子かつみ『快球Xあらわる!!』の6本。
記憶にある通りだ。このあたりから私のマンガ漂流人生が始まったのは間違いない。
数号読み進めるうちに、多くのマンガ愛読者同様、私も手塚作品の虜になっていった。
いまさら私ごときが、手塚作品の面白さや偉大さをことさらここに書く必要もないだろう。
でも、自分の手塚先生へのお礼として、これだけは記しておきたい。
私は、手塚作品でSFスピリットを学んだ。
私の思うSFスピリット――
それは、人間を人類という単位でグワシッと掴んで(とらまえて、でもええけど)、文明や社会や世界の諸課題について、フィクションという衣をつけて天麩羅を…違う違う、…科学的知見に基づいたフィクションという衣を纏わせて思索を巡らす創作態度と世界をつかまえようとする心構えのこと。
この頃、国産SFはまだ黎明期だった。
著名な小説家は海野十三ぐらいしか見当たらない。
そんな1950年代にあって、48年末から51年にかけて刊行された手塚先生の初期SF三部作『ロストワールド』・『メトロポリス』・『来るべき世界』がどれほどの衝撃を持って迎えられたか、想像に難くない(小説ちゃうけど)
ちなみにゴジラ第一作の公開は1954年だ(手塚作品ちゃうけど)
1957年に至って有名なSF同人誌「宇宙塵」が創刊され、59年に「SFマガジン」創刊、そして63年、ようやく日本SF作家クラブが創立される。
「SF御三家」の履歴を見ても、仙人・星新一が58年に『おーい出てこーい』、『ボッコちゃん』を「宇宙塵」に発表。巨匠・小松左京は、日本アパッチ族を書き下ろしで64年3月に光文社(カッパ・ノベルズ)から刊行。『復活の日』は64年(早川書房:書き下ろし日本SFシリーズの第1作)に刊行。また、鬼才にして文豪・筒井康隆は、初作品集『東海道戦争』の出版が1965年…という状態だった。
だから1960年、“子供マンガ家”の手塚治虫が、日本で一番知られたSF作家だったといっても間違いではないのだ。
60年12月の『0マン』終了後も、引き続いて『キャプテンKEN』『白いパイロット』さらに『勇者ダン』…サンデー愛読の歴史は、手塚作品の愛読史でもあった。
時は流れ…60年代後半から70年代に。いわゆる「劇画ブーム」と呼ばれる時代に入り、私も含め多くの「サンデー派」は「マガジン派」に移行していった。さらに、自分達「マンガ世代」の成長とシンクロするように登場した青年マンガ誌にも吸い寄せられてゆき、やがて児童マンガへの関心は薄らいでいった。
とはいえ、絵(画)の流行り廃りや描写内容の高齢化などがあっても、手塚作品の「世界丸ごと構築しました」みたいな世界観のある、スケールの大きな物語を構想する作家や作品にはなかなか出会えなかった。自然と上に書いたSFスピリットを持った作品にかつえ、希求することになる。
それゆえ、66年から始まった「COM」版の『火の鳥』、67年の『どろろ』『人間ども集まれ!』(週刊漫画サンデー:連載)、71年からの『鳥人大系』(SFマガジン:連載)などは、「やっぱり、手塚治虫はすごいや!」と唸った作品達である。
画風に関しても、ご本人には、いろいろとジレンマがあったようだけれど、『人間ども集まれ!』と『鳥人大系』の大人向けと意識された絵は、スカーンと抜けた見事に完成された画で、私にとっては最良の「手塚タッチ」といえるものだ。(※1)
膨大なマンガ山塊の、あまたある名作傑作を読みついで60年、人生の終盤近くになって再び読み返す手塚作品の数々は、やはり、面白い。
やはり、マンガの神様である。
※1:S.F.FancyFree シリーズ(SFマガジン:1963-1964年連載)も同系統、大好きな絵だ。