天才・桑田次郎さん

ものごころがつき、マンガを読み始めた時、すでに三人の巨匠がいた。

『鉄腕アトム』の手塚治虫、『鉄人28号』の横山光輝、『まぼろし探偵』の桑田次郎のお三方で、誰が何歳で、どんなキャリアで、とかいった情報は一切知らなかったし、当然のことながら、少年にとっては作品がすべてだった。
絵もお話も素晴らしいお三方だったが、中でも桑田さんの絵、とにかく頭抜けて上手くて、しかもカッコ良かった。

手塚治虫の画は、手塚ナイズされているとはいえ、ディズニーや島田敬三っぽい絵――つまり戦前からの影響が色濃く残る、全体に丸っこい、こども漫画の絵だった。
横山光輝の画は、手塚絵をもう少し直線的にして若干年齢を上げた感じ、手塚以後に出てきたテヅカ・マイナーアップデート版あるいはテヅカ ver 1.25といった味わいの絵だ。

ところが、桑田さんは、全然違った。
デビュー当時は知らないが(だって、オイラの生まれる前から描いてはるねんからね)、私が出会った昭和35年頃には、きちんと理論的にいえないけれども、もはや青年マンガの絵だった。
線の強弱、描線の走り方・閉じ方から醸し出される画の感性――“画風”が、都会的で、洗練されていて、当時放映されていた米国製テレビ映画に出てくる米国俳優達、国内俳優だと田宮二郎のカッコ良さ、を少年の私に感じさせていたのだ。

桑田さんが、少年主人公であっても縦長デカ黒目で描かなくなるのは’60年に入ってまもなくで、’63年のエイトマンの頃には完全に捨てている。
多くのストーリー・マンガ家が劇画などの影響を受け横長目に正円のまなこを採用するのは’70年以降であることを知れば、桑田さんがいかに早くから“青年マンガ”だったかわかるだろう。

また、後期になっても、ほとんどスクリーントーンを使わない、線描のみの画面はクラシック感を与えていたかもしれないが、私などは、なんて綺麗な画を描く人だろうと、感嘆の息を漏らしていたのだった。
同様の“心地よい抜け具合”を感じたのは、不思議なことに児童マンガ界ではなく、描き込みが多いと思われがちな劇画界の、園田光慶(※1)さんの画からだけだった。

25年前に書いた、桑田さんへのファン・レターもどきの小文を転載して、本投稿を終えることにする。(※2)

【ウルトラセブン・余話 ~天才 桑田次郎さん~ 】

コミックとTV番組のタイアップもすっかり定着した60年代の後半、TVがオリジナルの場合、マンガの執筆者は、新人か少し一線を引いた作家だった。
連載することが最優先で、書き手は二の次だったからで、当然、あまり上手な絵はなかった。
だから、桑田さんが『セブン』を担当なさった時は、少し驚いた。当時「マガジン」を買ってなかった私は、あわてて、古本屋さんでバックナンバーを買い込み、帰宅するとすぐにバラして、合本して持っていた。
さすがに線は素晴らしく、セブンはもとより、ホーク1号もエレキングもきっちりと描かれており、もったいない(?)気がした。
タイアップものの宿命で、放映終了とともに連載も終る。
だから、ある程度の尻切れトンボは仕方がないが、「北へ帰れ」の最後で、唐突にセブンが宇宙へ帰ったのには腹がたった。
(復刻版でもそのままだろうな…)
桑田さんの画は、最初から洗練されていて、独自の都会的な画風は、当時から群を抜いていた。
アメリカンコミックをみても、さほど驚かなかったのは、小さい頃から桑田さんを知っていたからだ、と今も思う。

桑田次郎さんは、天才である。
確か13才でデビューされていて今でも最年少デビューの記録を持っておられるのではないか。
読者の成長とともに青年マンガ誌が必要となった60年代の終り、抱きたくなる女性を描ける線を持った漫画家はそういなかった。
大人漫画界の大家・小島功さん、児童マンガ界では石森章太郎さん、そして桑田さんぐらいだった。
『アンドロイドピニ』など当時から青年漫画として完成していた。
『8マン』が代表作と伝えられるだろうけれど、同じく平井和正さんと組み「キング」を支えた『エリート』、少し時期をおいての第二部『魔王ダンガー』が忘れられない。
極め付けは、二人とも煮詰まってしまったような『デスハンター』。平井さんの小説『死霊狩り』として転生するが、私にとっては『デスハンター』が原作だ。


__桑田さん、素晴らしい画、多くの作品、ありがとうございました。

※1:園田光慶さん…言わずと知れた『アイアンマッスル』『ターゲット』の作者。この人もうまかったなあ~。

※2:20世紀の最後か21世紀初頭かの頃、ブログツールが出る以前、筆者が作っていた『Branchi Line』と題するWebsite。その中の雑文集カテゴリー『電網色想草紙』中のウルトラセブン礼賛文『ウルトラセブンとカラーテレビ』に続けて書かれた一文。