堰堤 思い出話 ―大和川付け替え編― Part 2

さて、ここからは付け替え(新・大和川築造)工事についての私の学習成果覚書である。

<スピード工事だった>
1704年(元禄17年)2月27日、川下より工事が始まり、同年(宝永元年)10月13日、付け替え地点の新川切通しにより開通、竣工する。8カ月で完成という大変なスピードで工事が完了。
(ちなみに1704年は、8代将軍吉宗による享保の改革が始まる12年前である)

<工事費=143億円>
工事の費用総額は71,500両。1両=約20万円として換算すると、143億円。
約半分の37,500両を公儀普請として幕府が負担し直轄工事で、残りは御手伝普請として、播磨国姫路藩、後に、和泉国岸和田藩・摂津国三田藩・播磨国明石藩・大和国高取藩・丹波国柏原(かいばら)藩が分担させられた。

<工法は以外、だけど合理的!?>
驚異的なスピードで完了できたのは、なぜ?
工事の多くは、地面を掘って川を造るのではなく、土を積み上げて固め堤防を築いていく工法がとられた。(幕府の担当ゾーンはほぼこの工法でOKのところ(笑))
これは、河内平野に対する実測と緻密で精細な土木工事設計で可能となった。10年余ボ〜ッとしていたわけではなかったのである(スゴイ!)
難工事だったのは、上町台地の南端を横切る堺市浅香山部分で、固い地盤を掘り進む大変な難工事で、総作業員245万人の半分近くがこのポイントに投入されたとか。

<付け替えの効果>
旧川筋跡の中央部分は農業用水を送るための水路を残し、他の部分は埋め立てられて農地に。現在の東大阪市や大東市にあった二つの大きな池も埋め立てられ、新田として開発された。
新川の川床となった“つぶれ地”は、全村で約270ha、拓かれた新田の総面積は、約1,050ha。生まれた新田数は42にのぼり、幕府が重視した流路変更のメリット、農地の増大(幕府の増収)という目論見は成功した。
また、幕府は旧大和川河川敷の開発権と所有権を“地代”として民間に売却することで、付け替えで負担した金額(70億円)をほぼ賄うことができた。(うまいことデケテル!)
落札は豪商・庄屋などを中心にした、町人請負、寺院請負、農民寄合請負等のグループ単位で行なわれ、新田には農地・水路の管理、年貢や肥料代の徴収といった新田経営の拠点となる「会所」が設置された。(※7)

<換金作物の綿と菜種>
もともと河内の土地は水田向きではなく、畑や綿の栽培が行われており、新田でも綿が盛んに植えられ綿の大産地となった。
綿花は主に平野郷町で綿布に加工されて全国へと出荷され、「河内木綿」はブランドとなった。
また、埋め立てた深野池の跡地では菜種が多く植えられ菜種油の原料となった
二つの換金作物―綿花と菜種の栽培は、所により生産比率は異なるが、江戸期後半の河内の農村経済を支え、また大坂(大阪)の発展に大きく貢献したのだった。

<付け替えの影響>
“つぶれ地”では、村落の分断・等価とはいえない代替地、稲作でなりたっていた農村が畑作に転換せざるを得なくなった等の試練にあった人々も現・八尾市や藤井寺市にたくさんいた。また、新川の下流域では、新たに洪水が発生する“持ち込み災害”も発生した。下流域が氾濫しやすい“性質”は今日に至るまで根本的には解消されていない。


――ちょっと長い覚書になった。
そんな大工事が竣工した250年後、小生が生まれたわけだけど、その少年期―昭和30年代に私が漠然と思ったり感じたりしていた“付け替えによってもたらされた町の財産”をいくつかメモっておきたい。

●旧川筋の天井川だった跡地に鉄道が敷設された。国鉄の関西本線(現・JR大和路線)がそれで、「なんか、ちょびっと高いとこ走っとンなぁ」と乗るたびに思っていた。(※8)
●国内で唯一の綿実油の製造メーカー岡村製油がある。まさしく河内の綿花栽培の伝統を継ぐものだろうね。(’70年代の初め、印刷会社のデザイン室に勤務していた筆者は、同市出身者というご縁もあって、パッケージに同梱する栞であったか、リーフレットであったかの制作を担当させていただいたことがある)
●少年の頃、付け替えポイントの近くにある染物工場(※9)に大相撲・二所ノ関部屋の力士たちが特注の浴衣地をとりに来た。(ちょっと町中はお祭り気分だったような記憶がある)
●そんな地場産業の活況もあって旧川筋・長瀬川の用水を守るため、排水専用の水路を両側に設けた。このユニークな用水路設計を「長瀬川の二段水路」と学んだ。(※10)
●新大和橋あたりに映画のロケ隊が来ていたような記憶がある。今東光師の「河内風土記」シリーズだったようにも思うが、あれはお隣の八尾市の話なんで、記憶違いかも知れないね。

大和川、2004年には付け替え工事完成300年を迎えた。
幸いにして21世紀の今日まで、建設省(国交省)の流域整備の効果の賜物でもあるのだろう、大和川氾濫のニュースをあまり聞かなくなった。(※11)

であるけれど、2020年代、明らかな気候変動の時代である。
ゲリラ豪雨や線上降水帯等の言葉が日常語になり、各地での災害・被害が頻発するご時世だ。
つまり、戦後日本の都市計画・開発計画・インフラ整備計画の範疇を上回る、想定外・予想外の降り方、流れ方に翻弄される時代に入ったようだ。
大和川流域もいつそんな厄災に見舞われるかわからない。

戦後80年の国土設計を根本的に見直し緊張してサバイバルを考えねばならない時代。
流すことができる量の上限を超えてくる雨量に対しては、溜めておく量を増やすこと、高度経済成長時代の開発で失った遊水池や貯水池などの復活方法を、流域の自治体や国土交通省の所管部署の総合的な知力と努力で立ち向かい創出するしかないなぁ~などと素人考えで日々暮らしている昨今なのだ……

※7:会所跡としては、「鴻池新田会所跡」(1976年に国史跡)、「安中新田会所跡旧植田家住宅」(2006年に国登録有形文化財として登録)が有名で、多くの古文書や工芸品、河内木綿で作られた衣服などが残され、河内の歴史を今も伝えています。下の写真は、筆者が平成26年に訪れた時のチケットである。

※8:大阪市・天王寺駅を起点とする関西本線は、大阪鉄道株式会社(初代)によるもの。1889年(明治22年)5月 湊町~柏原間 開業。1900年(明治33年)6月、関西鉄道に譲渡された。

※9:染物工場…昭和10年(1935年)創業の伝統的な本染め浴衣地の老舗と記録されている「二見秀染工株式会社」という会社だったと思うが、現在も存続されているのかどうかは確認できなかった。
柏原市の染色業は、河内木綿の伝統をひく地場産業として紹介されるが、「付け替え工事」が直接的なきっかけになったものではない。柏原市で布地の染色が始まったのは、明治末期から大正の初めといわれている。染色には多くのきれいな水が必要で、旧大和川の川床筋である上市・古町地区の豊富な伏流水(地下水)が工場用水として活用しやすかったため、同地区に工場が多く建ち並ぶことになり、結果、付け替えによって生まれた河内木綿の生産地に、時が経ち、染め物工場が引っ越してきた―という連鎖・円環の賜物である。だから「河内木綿の伝統をひく」といっても間違いではなさそうだ。

※10:長瀬川の二段水路…長瀬川は、新・大和川の水を「築留二番樋」(つきどめ・にばん・ひ)という取水口を通して、下流の八尾や東大坂に流す農業用水路として活用されていたが、河岸に染色等の工場が進出してきたため、1950年頃に用水と排水を分離し、用水の両側に排水専用の水路を設けた。
私の記憶では、川幅を1:3:1に区切り、右端と左端は工場廃水や生活排水が流し、中央の幅広レーンは農業用水路というもの。左右の排水レーンは常に流量が多く、センターの用水路は幅広故もあってか、常に水位は1~2段低かったように覚えており、漢字の「凹」のイメージだ。
故に、筆者が小学校で教えられた名称「長瀬川の二段水路」は実態に合ったものとして記憶に刻まれており、現在の表現では「長瀬川の3本水路」と表現されることが多いのだが、ここでは「二段水路」を採用した。

※11:大きなところでは、1982(S57)年8月の台風10号・9号崩れ低気圧による大雨で戦後最大といわれている洪水が発生。奈良県や大阪府内の支川のはん濫や内水浸水の発生により、21,956戸の家屋が浸水する等の被害が生じた。降雨規模は上と同程度であった2017(H29)年10月の台風21号による大雨では、柏原市、王寺町、三郷町において溢水、床上・床下浸水が発生したが、大阪府域では浸水0戸、奈良県域では約250戸の被害で済んだと発表されている。


★大和川付け替えポイントの写真(柏原市役所前):Wikipedia CommonsよりDL(