「少年画報」は、 1950年(昭和25年)より少年画報社が発行、昭和30年代には「少年」と激しく少年誌の覇を争った名門誌である。
筆者が眼にし、記憶に留めている同誌の代表的連載陣には、福井英一・武内つなよし『赤胴鈴之助』(54年~)、河島光広・矢島利一『ビリーパック』 (54年~)、桑田次郎 『まぼろし探偵』(57年~)、堀江卓『天馬天平』 (57年~)、望月三起也『最前線』(63年~)、藤子不二雄『怪物くん』(65年~)、赤塚不二夫(原作)・長谷邦夫(作画)『しびれのスカタン』(65年~)、手塚治虫『マグマ大使』(65年~)、森田拳次『ロボタン』(66年~)等々があった。
「1958年(昭和33年)の絶頂期には80万部を発行、実売99.8%を売ることがあったが、1971年(昭和46年)に休刊した。」との記述がWikipediaにある。その歴史は20年だった。
「冒険王」は、1949年から1983年にかけて秋田書店が発刊していた。
ヒット作には、福井英一の元祖熱血柔道マンガ『イガグリくん』(52年~ )、高野よしてる『木刀くん』(54年~)、関谷ひさし『ジャジャ馬くん』(58年~)、貝塚ひろし『ゼロ戦レッド」、松本あきら(零士)『潜水艦スーパー99』(64年~)、手塚治虫『魔神ガロン』(59年~)、石森章太郎『テレビ小僧』(66年~)等がある。
その弟誌が「まんが王」。
手塚治虫『ぼくのそんごくう』(52年~)、桑田次郎『超犬リープ』(65年~)、手塚治虫『ふしぎな少年』(65年・「少年クラブ」版の再録)、いずみあすか『海賊王子』(66年~)、板井れんたろう『スリルくん』等が掲載された。
誌名は明瞭に覚えているのに、個々の作品についての印象が薄いのが残念である。
そしてメジャー・講談社が発行していたのが「ぼくら」。
1954年12月に創刊(1955年1月号)され、1969年10月号で休刊、「週刊ぼくらマガジン」として再出発したが、1971年6月には「週刊少年マガジン」に統合された。…いうのが、同誌の最短略史。
連載作は、映画もヒットした吉田竜夫・原作:宮川一郎の『スーパージャイアンツ』 (58年~)、テレビで大ヒットの武内つなよし『少年ジェット 」(59年~)、そして松本あきら(零士)『電光オズマ』(61年~)、山根赤鬼『よたろうくん』(63年~)など。68年から始まった『タイガーマスク』(辻なおき、原作:梶原一騎)は、ヒット中だったので、看板作としてそのまま「週刊ぼくらマガジン」に継続して連載された。
他誌と同様、テレビアニメ・特撮作品のコミカライズも多く掲載され、『狼少年ケン』(64~65年)『風のフジ丸』(64~65年)、『スパイキャッチャーJ3』(65~66年)『ウルトラQ』(65~66年)、『ウルトラマン』(66~67年)、『快獣ブースカ 』(66~67年)、『ウルトラセブン』(67~68年)、『ちびっこ怪獣ヤダモン』(67~68年)、『妖怪人間ベム』(68~69年)などお馴染み作が並んでいる。
児童向け週刊誌、「少年マガジン」「少年サンデー」が創刊されたのは、1959年(S34年)の3月のこと。
月刊誌は、休刊と言いつつ、すべて廃刊。世は一気に週刊誌時代となり、「キング」(63年7月)「ジャンプ」(68年7月)「チャンピオン」(69年7月)の創刊へと時代は移っていった。
自分が、毎月楽しみにしていた月刊誌の形。B5判の分厚い本誌に、「ロケットステーション」や「宙返り戦車」といった組み立て式オモチャの付録とB6サイズの連載漫画の別冊付録が5~6冊ついて、ボリューム満点だったのだ。価格は、120~30円以上、時代が下っても200円未満で推移していたと思う。
もう、あんな形で雑誌の発行は出来ない忙しい世になったんだな~と嘆いていたら、どっこい、付録文化もしっかりと進化しており、この令和の御世において、月刊少女マンガ誌に受け継がれておりました。
よかった。よかった。